『苦情に対して』           使徒行伝 第6章1〜7節

 第5章には、アナニヤとサッピラ夫婦の献げものに対する偽りによって神に打たれるという教会内の問題が書かれ、また大祭司やサドカイ人らによる教会外からの迫害が書かれています。しかし、「主を信じて仲間に加わる者が…ますます多くなって」(5:14)きました。第6章にも、教会内外からの問題が書かれています。今日のテキストには、日々の配給に対する苦情が書かれ(1)、教会内に問題が生じました。初代教会には、教会内外からの問題が山積していました。しかし、そのような問題がありながらも、どうして救われる人々が多数起こされ、教会は成長していったのでしょう。今日は「苦情に対して」というタイトルで、その点について見てみましょう。

T.苦情を言い合える教会
 「ギリシヤ語を使うユダヤ人から、…日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立て」られ(1)、教会内に問題が生じました。毎日の食事は、大きな問題に発展しうる可能性があります。彼らは、いつもいつも「おろそかにされていた」訳ではなく、「おろそかにされる時」もありました。それであっても、苦情を申し立てたのです。苦情を申し立てることのできる教会は、素晴らしいと思います。初代教会には、そのような問題をも申し立てられる温かい雰囲気があったのでしょう。教会には苦情を言い合える香(かぐわ)しさが必要です。言ったら最後、睨(にら)まれて居場所を失うと言うようなことがあってはなりません。私たちも自由にものが言い合える風通しの良い、互いに「苦情を言い合える教会」を目指し、救われる人が起こされる教会を求めていきましょう。

U.苦情を受け止め合う教会
 初代教会は問題解決のために、12使徒が集まって協議しました(2,3)。その結果、「信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ」と、その他6名が選ばれ(5)、彼らにその仕事を「まかせ」(3)ました。苦情処理は、誰でも出来る仕事ではありません。出来れば避けたくなるような仕事です。でも重要な仕事です。苦情を申し立てるにしても、それを受け止める度量が相手になければ、苦情を申し立てることは出来ません。初代教会には、「信仰と御霊と知恵とに満ち、評判の良い人」が選ばれ、彼らは問題解決のために豊かに用いられました。私たちも互いに苦情を受け止め合うところの教会を目指していきましょう。

 私たちの教会にも問題がないわけではないでしょう。私たちはそれらの問題に心奪われ、神を見上げることを忘れ、「だから、この教会はダメなんだ」と結論付けてしまうのは性急です。しかしそれらの「苦情に対して」、苦情を内に秘めるのではなく、信頼関係をもって苦情を申し立て合う教会を目指し、またその苦情をはぐらかさないで、しっかりと受け止め合う教会を目指したく思います。このような教会が形成されるならば、問題はますます縮小し、御言はますます拡大し、神の御業がなされると聖書は約束します(7)。信じて歩みましょう。   

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